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こどもの日に考える子供と子ども

 「子供」と書くのはよろしくない。「子ども」と書くべきである。そんな意見があるらしく、「子ども」と表記する媒体が増えているということです。なぜ「子供」がいけないのかというと、「供は従属や隷属を表す文字である。こどもは断じて大人に従属する存在ではない。子供は子どもを差別する表記である」ということらしいのです。何か、とってもバカバカしい意見に思えてしまいます。

 一部の有識者とやらが、差別を理由に特定の人の呼び方を変えてきたのは今に始まったことではありません。国民ほとんどが納得できるものも多いのですが、そこまで必要か?と疑問を感じるものも数多くあります。例えば、昨年の5月1日以降、看護婦という表記は公では使えなくなりました。でも、ほとんどの看護婦さん達は被差別意識はないようです。これは、知り合いの看護婦さんから直接聞いた話です。というわけで、男のナースを看護婦と呼ぶのはまずかろう、だから看護師さ、そう僕は理解しちゃってます。でも、なんで看護師なんだろう。看護士でもいいのに…。ちなみに、航空機に乗るキャビンアテンダントの中にはスチュワーデスと呼ぶと返事してくれない人がいるそうです。
 
 子供の話に戻りましょう。ちょっとネットをさまよって得た情報です。「子ども」派は、前述の差別要素以外にも、学校関係者が「子ども」表記を多用することを自分の意見の正当性を認める要素のひとつとしています。ただ、これはとっても都合のいい意見のようです。つまり、「供」という字は6年生になって習う字。ですから、5年生までは当然子どもを使う。そういう理由だそうです。「子ども」派、ピ〜ンチ。さて、「こども」の語源です。もともと子の複数形を表す言葉だったようです。それが、次第に「大人」と対をなす言葉になってきたというのが大勢を占める説です。「こども」という言葉そのものは、万葉集から使われているのがわかっているようで、「子等」などの文字をあてていたこともあったようです。
 
 さて、「子ども」派はさらに「供」はあくまでも当て字でありその出典や理由が明記されていないから使うべきでない、という論を展開しています。しかし、こうした意味とはかけ離れた当て字を使う言葉はゴマンとあります。ほとんどダジャレで決まった地名も多くあります。言葉は生きています、だから、変化します。以前にこのブログで僕は「言葉は変化する。だから基本的にはおかしな言葉使いや表記を容認する」という趣旨を書きました。しかし、有識者とやらが己の浅はかな考えで言葉をねじ曲げ、それを国民に強制するような動きには抵抗があります。